■インタビュー再掲

かつて、園芸雑誌のインタビューに応えた記事です。すでに廃刊(1962年~1990年)になっている誠文堂新光社のガーデンライフ1988年4月号の巻頭記事です。齢78歳ですが、カトレヤ作出の半生を語っています。

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日本の無菌培養の歴史とともに歩んだ

中山林之助氏の新花論・カトレヤ

ブリーダー登場

 無菌培養という播種法は、長い洋らん峩培の歴史のなかで、最大の技術革新といっても良いと思います。それまでは、らんを殖やすといえば、株分けか、ラン菌を頼って親鉢の根元に種子を播き、わずかに生える苗を得ていたにすぎません。それとても、生長する途中で虫に喰わたり、病気にかかったりで、親株に育つのはごくわずかになってしまいます。生産という言葉とはほど遠いような繁殖率です。
 したがって、らんはものすごく高価なもので、特別な階層の方々でなければとても花を咲かせて楽しむということはできませんでした。ところが、無菌培養法が確立されてからは、一個のさやから数年を経ずして、天文学的な数まで殖やせるのですからたいへんな改革です。


無菌培養法との出会い

 日本での無菌暗養の先覚者は、京都帝國人学(現京都人学)の土屋格先生で、アメリカのコーネル人学で学ばれ、国内にその技術を広められたのです。日本では初めてのことです。
 私が無菌培養を手がけるようになったのは昭和7年ごろ、私の学んでいた千葉高等園芸学咬(現千葉人学)の植物病理学の理学博士・堀正太郎先生に、「私の教室に無菌培養の設備があるからやってみないか」とさそわれてからのことです。といってもらんの種子がかんたんに手にはいるわけもなく、また薬品もそろいません。そこで、種子はたまたま庭に茂っていたシランを使い、培地はジャガイモが代用できるんじゃないか」という先生の指導で、それをすりつぶして20%の砂糖を加え、加圧殺菌や加熱殺菌して使うことにしました。この実験は私の卒業論文にもなりました。
 同じころ、土屋先生の指導をうけたのは先輩の山岡健太郎氏、後藤兼吉氏、池田成功氏など数人でした。
 当時は農業といえば、野菜か米、果樹ぐらいしかなかったので、あとから追いかけたって太刀打ちできるものではなく、あれこれと卒業後の生き万を考えていたときでもあったので、せっかくだれもやっていない技術を身につけたのだから、らんの生産をやろうと決めました。
 洋らんの苗を作って、イギリスやアメリカなど.世界を相手に競争してやろうと思ったのです。、日本ではとてもらんの花が一般に売れる時代ではありませんでした。それにはイギリスの業者より安くしないといけないと考え、まず設備費、暖房費が倹約できる場所を考えました。まず、伊勢に行って、海で伊勢エビを作り、陸でらんを作ろうかとも思いましたが、条件がそろわずだめになりました。そこでハワイヘ行こうか、サイパンにしようかなどと考えましたが、結局、船の便の良い台湾に決め、1年ほど台湾を歩きまわって、高雄に落ちつきました。昭和9年のことです。


育種への思い高まる

 苗を増やすと同時に、営利向きの品種で、しかも少しでも良い花を作ろうと.品種改良も始めました。
 それにはまず親を知らなければなりません。交配をするからには、系統を知らなければ何が出てくるかわからず、ロスが多くなります。目の前に咲いている花にどんな原種の血がはいっているのか、まったくわからないのです。サンダーのリストを見ても、名前だけですからり見当もつきません。
 そこでとりあえず、オーキッド・アルバムや、フランスの図譜の原種を模写したりして資料にしました。イギリスからは毎年春と秋、100~200株ほどの苗を購入していましたので、それらを咲かせてみた結果から、いろいろと判断したものです。とくにAM/RHSやFCC/RHSを受賞した品種にはどんな親が使われているかを調べました。
 またイギリスから「オーキッド・レビュー」が送られてきていましたので、系統を知るうえでは多少参号になりましたが、カラーの少ない時代ですから骨がおれました。
 良い花が出る親株はイギリスでも売ってくれませんので、まったく暗中模索で、多少の資料と、自分の勘を働かせるよりほかにはないのです。
 たとえばカトレヤーワルセウィッチィー(C.warscewiczii)の血を受けた品師はペダルが上に向き、カ・トリアネー(C.trianaei)やカ・モッシェ(C.mossiae)は横に向く傾向があるので、ペダルをビンとLにした花形をねらうなら、親にはカーワルセウィッチィーを使えば良いと判断ができるまで、扣当な時間がかかるわけです。


日標はまず儲かること

 最初から営利が目的でしたから、丈夫でよく殖え、花が大きく、しかも輪数が多く、年2回は咲いてくれるもの、さらに鉢ものにも向くように、木の姿勢がよく、花と葉のバランスの良いものをめざしました。
 コンテスト用の品種であるなら、多少性質が弱くても、目新しいもので、一輪一輪がよければそれで良いのですが、生産を考えたらそれではとてもやっていけません。
 色も珍しいものよりごく一般向きの、衣装によく合う色が良いということで、カトレヤ色といわれるラベンダーがいちばん喜ぱれました。
 今までずいぷん交配してきましたが、思うような品種はなかなか出てくれないもので、むだばかり多かったように思います。
 たとえばブルーのカトレヤには小さな花しかないので、大輪のブルーが欲しいと思い、カ・ボウリンギアナ・セルレア(c.bouringiana’Coerulea’)にブルーの花が咲くブラッサボラ・ディグビャナ(Brassavola digbyana)、赤の血を含まないと思われるカトレヤ・スノウドン(C.Snowdon)スノウフレイグ(C.Snowflake)などをかけてみましたが、全部ピンクになってしまいました。
 いろいろやったなかでは、R・ナカヤマ(Blc.R.Nakayama)が最初の自信作ということになりましょうか。昭和12年ぐらいの交配です。丈夫でよく咲き、花も大輪です。それに葉の姿勢もよく、乱れませんので包装がしやすいのも魅力です。自分でも気にいっています。


残されている課越

 花色や花形、性質など、さまざまな改良の方向はありますが、今、カトレヤでいちばん望まれているのは開花期の問題だと思います。
 従来のカトレヤは、秋から冬咲きがほとんどですから、春から初夏の結婚シーズンにはカトレヤの花はごく少なくなってしまいます。それとお盆にもカトレヤの花がほしいところです。
 アメリカのアルマ・コストが、カ・モッセイを使って春咲きのアイリン・ホルギン(Irene Holguin)、アイリン・フイニー(Irene Finney)を作出していますが、日本に来ると3月ごろ咲いてしまったりで、安定したものがありません。
 レリア・パープラタの系統が初夏咲きなので、閧花期を遅らせる親としては理想的なのですが、残念ながら花弁が細くなる傾向があって、今ひとつ花形が劣ります。今のところこれを使っていくしか方法がないようです。
 育種の世界も昔とは違ってさまざまな面で研究が進んでいるとはいえ、相手は自然の生きものです。思うようにいかないことのほうが多いものです。いかにロスを少なくするかが、育種に残された永遠の課題だと思います。
 みんなが羨ましがるような花が作りたいと、今でもこれはと思う組合わせで、年に数組くらい交配しています。
 らんの栽培、育種にたずさわって50余年、あきらめずに花の間を泳ぎまわる私の日常生活は、生涯変えられそうにありません。

(日本蘭協会会長)


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